1583年(天正11年)真田昌幸が上田城を築きました。平城の形式で、城の下を千曲川が流れていたため「尼が淵城」とも呼ばれました。
1585年(天正13年)徳川家康率いる八千の軍勢を真田勢わずか二千余りで迎え撃ち、奇襲作戦で討ち破ったことは有名です。
関ヶ原の合戦で真田家は、親子が分かれて東西両軍に参加しました。
昌幸の次男、幸村は大坂冬・夏の陣で徳川軍に命がけで挑み苦汁をなめさせたことによって「真田、日本一の兵(つわもの)」といわれました。
その後、徳川軍に味方した長男、信之は松代藩(現・長野市松代)の藩主となり、上田を後にしています。
真田氏の後には、仙石氏が上田城の城主となり、城下町づくりと北国街道の宿場町としての整備に力を入れ、現在の街の基本を作りました。
江戸時代は善光寺信仰が全国に広まり、上田も北国街道を通る参拝者で賑わいをみせました。
仙石氏の後には、松平氏が城主となり、明治まで上田の産業と文化振興に貢献しました。
現在は史跡公園となり、春にはしだれ桜に始まり、続いてソメイヨシノが一斉に咲き誇り、見る人を魅了します。
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