菅平高原のペンションオーナー達が一つ一つ歩いて集めた情報ページ
地 域 真田の郷


真田の山城
米山城・砥石城
  お問い合せ先   真田地域自治センター 産業観光課
  〒386−2201
   長野県上田市真田町
   TEL  0268−72−2200(代)      
上田菅平インターを菅平方面に車で約5分、
伊勢山の信号を左折、約1分坂を登りきったところを右折、すぐ駐車場に出ます。
標高はそうでもないのに、滑りやすく登りにくい。そして上は見晴らし抜群、さすが山城です。


真田氏は、真田町を発祥の地とし、上野・三河・甲斐・上田・大阪・松代等全国的に活躍の舞台を広げ、至る所に往時を
偲ばせる貴重な史跡をとどめています。
武田信玄と上杉謙信が覇権を争う戦国時代、真田はまだ地方武士武田家の家臣だった。
海野氏は伝承では、海野氏は滋野氏から分かれ、海野氏、望月氏、祢津氏が「滋野氏三家」と称さた。三家の幡の紋は、
海野氏が「六連銭」、望月氏が「月輪七曜」、祢津氏が「九曜」であった。
真田氏は海野氏野流れをくみ、六文銭を旗に用いたようです。

米山城
1550年上田原の戦いから2年後、村上と武田の戦いはじまり、 上田原の戦いの苦杯から、信玄は慎重に砥石城を包囲し、水を断ち切り、じりじりと攻めたようです。真夏の1ヶ月に及ぶ攻めに、砥石城に水の蓄えがあるはずがありません。 そのとき村上義清は白米を馬の背にかけ馬を洗って見せたのです。まんまと武田軍を破りました。「武田の砥石崩れ」と言われます。
世に言う「武田の砥石崩れ」で武田軍を破った、村上義清の碑。 米山城から上田城化を望む。上田から別所の方まで見渡すことが出来る。

砥石城  

砥石城は戦略的に大変重要な城で、武田の軍勢を持っても落とせなかった城(武田の砥石崩れは有名)を、真田幸隆が計略で落とし、武田の品の進軍の足がかりを作った。
砥石城からの眺望。すぐ前の緑の小高い丘が米山城その向こうが上田の城下町。
砥石城から見える範囲 攻め難い山城は登るのも下るるのも一苦労



前頁に戻る ペンション部トップページに戻る